瀬戸弘司で見る習慣が切れた時のユーザー心理
習慣は凄くて、怖くて、そして脆い。
これを改めて最近実感した。きっかけはYouTuberである瀬戸弘司氏の動画だ。
ここで発表するのもいかがなものかと思うが、私は瀬戸弘司氏が好きである。勿論異性の好きではなく、彼が動画で駆使する表現手法、デザイン、構成といったクリエイティブな所が好きだ。
だからかなり古い頃からのファンであり、彼のYouTubeチャンネルの成長も一緒に見てきた。
私は彼が投稿する動画を楽しみに待ち、眠る前に視聴するというのが日々のルーティンになっていた。勿論毎日動画が投稿されるわけではないから、今日はあるのかな?ないのかな?そんな感情も楽しんだ。
簡単に言えば私は瀬戸弘司氏という一人のクリエイターが好きだったのだ。
だから毎日チェックしていたし、可能な限り全ての動画を見た。
ただついこないだこのルーティンが完全に途切れてしまった。(正確に言うとこれが2度目であり、今度こそ本気で瀬戸弘司が生活の一部から消えてしまった気がする)
何故か?
それは単純かつ明確。彼の動画投稿が止まったのだ。もう1ヶ月程全くの音沙汰無しになり、Twitter等では死亡説まで囁かれるようになった。
瀬戸弘司氏のYouTubeチャンネルを登録してもう5年程の歳月が過ぎている。彼の動画は私の日々の生活にガッツリ入り込み、この状況が日常となっていた。
更新が止まってからも勿論チャンネルをチェックしていたが、更新停止から2週間目に近づいたある日、私はチャンネルのチェックを止めてしまった。
久しぶりに彼の動画を気にしない日が生まれてしまったのだ。これは意識的ではなく、完全に無意識だった。
彼の動画チェックをしなくなった事に気付いたのはそれから数日後。気付いて始めて習慣は脆いのだという事に気づいた。
彼はYouTuberであり、それが仕事の一面もある。だから仕事をサボるなという意見もあるが、ただこればかりはしょうが無いことで彼にも彼なりの生活がある。以前にも更新が長らくストップした事があったが、舞台の稽古をしていたという理由があった。
勿論納得できたし、そしてある日報告動画とともに彼の動画投稿は再開された。勿論直ぐに動画を見た。
やっぱり面白かった。そして彼が今取り組んでいる舞台も応援したいと思った。
ただ今回ばかりは期間が開き過ぎた。そのせいか以前とは異なる感情、そう心の奥底で彼に対する、いや正確にいうと彼のYouTubeチャンネルに対して期待値が以前とは異なる事に気づいた。
どうやら一度ルーティンが完全に切れてしまうと期待値も下がり、それらを元に戻すというのは難しいらしい。
以前は投稿されれば直ぐにでも見たいそんな衝動に駆れれていたが、今では皆無。勿論再開されれば恐らく我先に動画をチェックするだろうが、それは物珍しさと彼を心配する気持から見るのであって、純粋に動画を楽しみにしていたからでは無いはずだ。
一応言うが今回の更新ストップの出来事で瀬戸弘司が嫌いになったとか、そんな類のことはない。彼の動画はやっぱり面白いし、魅力的なコンテンツであることに間違いない。
ただ人の習慣というのは良い意味で柔軟、そして悪い意味で徐々に可塑性が失われていく事を知った気がした。
印象はその人に対する価値の元を形成するとよく言われているように、私達は知らず知らずに無意識に様々な判断を熟している。そしてこの熟しにはある一定のルールがあり、一度行った事は強く記憶するようにセットされている。その記憶は固定され絶対的なルールだと思いがちだが、ちょっと離れてみると一気にそのルールというものは崩れる。まるでこれまでの価値観が失われるようにだ。
ルーティーンが切れる時、私達は切れる前とは価値観も考え方ももしかすると変わっているのかもしれない。そしてその変わりは良い意味でもあり、悪い意味でもあり両方の意味を持つ。
そんな当たり前の事を今更気付いた今日此の頃、瀬戸弘司の無事を祈りつつ、続けることの大切さの根本はこの事なんだなと妙に納得したのだった。