YouTuberのシバターからみる人を嫌にするメディアの必要性
日本のYouTube界である意味でHIKAKINのようにトップスターなのがYouTuberの「シバター」だろう。
彼の出す動画にはアンダーグラウンドな要素が満載で、アングラ好きな方には一方で健全といえるHIKAKINのように今最も注目されているYouTuberの1人だ。
ネット特有のアングラ的要素に対して抗体が無い方が初めて見ると、恐らく嫌気が差すだろう。もう二度と見ないという方も中にはいるかもしれない。それぐらい彼が日々アップする動画には黒々しい要素が詰まっている。言うならば人を嫌にする動画とも言える。
内容がどうであれ人を嫌にさせるものに関して、私達日本人は非常に抵抗を感じやすい。批判運動が少ないのも納得できる。そんな中でこうも自身を晒しだし、時には視聴者を蔑む発言をしながら動画をアップする行為はある意味勇者であるとも言える。
シバターの動画の内容の良し悪しは見る側が決めればいいことで、視聴者の判断でシバターをシャットアウトすることが出来るわけだが、彼のチャンネルの登録者数が示す通り少なからずシバターのアングラ動画は必要とされている。
いくらネットであっても人である以上、誰かに嫌われたくないという心情はそうそう消しきれない。SNSが発展し現実世界とバーチャル世界とがシンクロしつつある今の現状では、よりそういった嫌われたくないという感情が生まれやすいのは当たり前だろう。
しかしながらネットであるからこそ出来る伝え方のバリエーションというのも複数あり、良いようにしか書かない・当り障りのない事しか喋らない人間味あふれる伝え方もいいが、シバターが出す動画のような’’人を嫌にさせるメディア’’のもつ必要性は高い気がする。もっとも内容をそっくりそのまま受け取る単純馬鹿以外向けにはなるが、シバターというYouTuberを見ていて思うのは、人を嫌にさせるメディアというのは「情報を得る側に敢えて心情的に傷つけて、それについて考えさせ自己の考えを生み出す」において有効な手段なのかなという気がする。特に情報に飢え考えを捨てた現代人においては。