人が人としてリアルに存在しているのって人には分からないと思うわけ
*以前運営していたブログより(2015/2/10投稿)
コンピューティングな世界を見ていると、偶にシミュレーションの世界で生まれた’それ’が自己を持ち、まるで生命活動をしているかのような振る舞いを見せることってあり得るよねと思うわけ。
実際にAIを備えた高知能なbotなんかがゆらぎの多いネットの世界を縦横無尽に歩き回っていることからしても、近い将来そのbotらがどこかのタイミングで学習し人格のようなものをもっても大しておかしくないはず。
でもさ、いくら高知能化したbotでも人格を制御しているのはあくまで初期に人が打ち込んだプログラムによるシミュレーションの賜物であってさ、もしbotらが限りなく人に近い人格のようなものを持ったとしても、その全てはシミュレーション発であってbot自身から生み出される人格ではないわけ。
これって現実世界でも同じようなことが言えて、私達生命体がなんらかのシミュレーションによって生み出され作られているという可能性は0%とは言い切れなくて、実は100%でもあるはずなんですよね。
100%というとあたかも確証されたかのような気がするけど、そもそもこの確証のふるい自体別事象で観測することが出来て初めて確かな意味が生じるはずで、この世界を別事象で観測することが出来ないとなると、可能性というモノ自体が意味をなくすわけです。
ある有名哲学者の「考えている己の存在は確実に存在している(我思う故に我あり)」なんかも、その考えている己が何らかのシミュレーションの結果であるとしたら、そもそもの存在自体が認識できないし、その考え自体も予めプログラムされた結果とも言えるわけですよね。
まぁでもシミュレーションであったとしてもそのシミュレーションをする何らかのエネルギーないしが存在していることは、考えている己の存在を意味するとも受け取れるけど、でもそれってシミュレーションか分からない世界で発展した存在学や科学による認識であって、この場合ではそのプロセス自体がナンセンスになる可能性も大です。
例えばエントロピーの基本的な限界を示すこの世界のエネルギーの上限値の存在を意味するベッケンシュタイン理論だって、シミュレーションによるただのオプションであるかもしれないわけですよね。
人がジャンプしても飛べないのもシミュレーションでの設定かも知れないし、急な悲しみも予め設定されたシミュレーションシステムのEventかも知れません。
つまりこの世界で起きている全ての現象自体は私達による確証を得ることが不可能な状況に私達自身は常にいるわけです。
不思議ですよね。
コンピューティングな話に戻るけど、AIの誕生によって人の考えがシミュレーション出来かけていることから見ても、私達が想像不可能な’何か’によってこの世界の全てがシミュレーションされている可能性だってあるわけで、その場合それに近づく術は恐らく皆無な気がします。
まぁもし仮にこの世界がシミュレーションだとすると、私が思って書いたこの記事だって、それを見ているあなただって全てシミュレーションの産物なんですけどね。
何が言いたいかって言うと、私達が今見て感じている全ては「分からない」という絶対的な未確定なものと言えるわけです。
もうこれってオカルト領域突入の話な気がしますが、量子力学などマクロからミクロへ視点を変える学問等では常識が通じない不確定な現象が度々観測されます(二重スリット実験とか)
そう、意外と分からないという未確定な状態って普遍的だったりするんです。
でもさ、よく考えればこれって明白な事で、別事象域で私たち自身を観測する術が無いわけだから、存在の推測すら不可能と思うほうが自然とも言えるかもしれませんね。
視覚だって味覚だって匂いだって痛みだって考えだって、超高精度なシミュレーションによればあたかも現実であると捉えてしまうということは既にもう体験したことがある人も居るはず。
ここまで未確定推しで書いてきだけどさ、まぁシミュレーションではなく本当に存在している可能性も100%なんですよね。うん。
いずれにせよそれを結論付けることは多分人には無理だと思うわけですよ。
そんなことをさ、1人夜考えていると、般若心経はよく作られたものだなと思う時があって、そりゃ宗教にでもすがらないと人生における自己存在証明の最終的妥協なんてできないよねと納得するわけです。
若干こじらせた奴のニヒッたヘンテコな独り言でしたが、さてさてあなたにはどんな風にこの世界が見えているのでしょうか。
もしかすると私の見ている世界とは全く異なっているのかもしれないですね。それもシミュレーションだったりしてね。フフフ